いじめによる子供たちの自殺が後を絶たないが、同じ年ごろの親を持つ身には他人事とは思えない。
親にとっては最愛の子供を亡くすということは、この上ない「悲しみ」である。
私の娘は現在16歳の高校2年生。その娘が小学校3年生の時に「学校に行きたくない」と言い出した。
その理由を聞くといじめに遭っているとのこと。しばらく娘の様子を見ていたのだが、日に日に「行きたくない」という気持ちは強くなっていった。
日頃、私は子供のことで「簡単に親が出ていきあれこれ言うべきではない」とは考えているが、ここは父親である私が出ていき話をしなければならないと考え、担任の先生に話しに行った。
いじめている側の子は、先生には分からないように陰でこっそりやっている。
私は先生に「その子たちを注意するようなことはしなくてもいいですから、まずは、その子たちがどのような行動をしているのかを、気づかれないように何気なく見ておいてください」とお願いした。
けれども、その先生の対応がよくなかったのか、先生に話したということが、その子供たちの知るところとなり、その後、娘の立場は一層悪くなっていった。
私はその先生に会った時、「あまり信頼できそうにないな」と思った。話していて「なんとかしなければ」という熱意が感じられなかったのだ。案の定、結果もそのとおりになってしまった。
それ以来、私は娘に「いやな時はもう学校には行かなくていいから」と言ってやった。「何も無理してまで行く必要はない」というのが私の考えだった。(母親のほうは、「なにがなんでも行け」と言い張るので、「休ませます」という学校への電話は私がしていた)。
なぜ、私が「休めばいい」と言うのか。
その時の先生は信頼ができなかったということもあるが、私自身、現在の教育システムに不信感を抱いているからだ。
それは、確かにいい先生もたくさんいるが、現在のあれもこれも先生がやらなければならない状況下で、一人の先生が30数人の生徒に目を配らせ、一人一人の生徒と向き合える時間の余裕があるか、といえば大きな疑問がある。無理だと思う。
そのあれもこれもという中には、日頃の授業の準備、部活の指導、生徒指導、保護者への対応の他、これは推測ではあるが文科省なり教育委員会等に提出しなければならない書類等も少なくないのではないか、と思われる(間違えていたら申しわけありません)。
私が小学生や中学生の頃は、現在のような複雑な世の中ではなく、もっとのどかで、先生方にも余裕があり、生徒に向き合える時間ももっとあったように思う。
娘に「休んでいいよ」と言った私の頭の中には、「休み休みごまかしながらでも学校へ行ってくれればいい」という考えがあった。
たとえ、そのまま行かなくなってしまっても「それはそれでもかまわない」とは考えていたが、娘は、時折、一日二日休んでは、気を取り直して通学し、なんとか義務教育の9年間を終えることができた。
その後、娘が高校へ入学して、私は「やれやれ、これでひと安心かな」と思っていたのだが、今度は「いじめではなく学校が合わない」と言い出し、この時も担任の先生と何度も話し込み、最終的には娘の意見を尊重して転校させるということになった。詳しくは「自主性を育む通信制高校」をご覧ください。
「違うと思ったらやり直せばいいのだ」「やってみないと分からないこともたくさんある」
私自身、今こういう年齢になったから言えることかもしれないけれど、「人生にはいろいろな道がある」たとえそのまま学校に行けなくても、それはそれでいい。それでも「自分が生きていく道はある」。
世の中というのはおかしなもので、純粋であればあるほど、正直であればあるほど、生きづらいという矛盾した面もある。
そういう人に対して「もっと要領よく生きろ」と、簡単に言う人もいるが、それができないのだ。
いや、そうする必要もない。
「その人が持っている純粋さ、正直さは人間として素晴らしいところ」なのだから、それはそのままで「これならできるかもしれない」ということを探していけばいいのだ。
なにせ時間はたっぷりある。何年かかってもいい。
「ゆっくりと、自分が生きていく道を探していけばいいのだ」。
私は子供たちに、そういうことを教えてやりたいと思っている。