生きづらさを感じる 「自分の居場所を見つけられたらいい」

先日の新聞に「ひきこもったり、生きづらさを感じたりしたことはあるか?」というアンケート結果が出ていた。

そのアンケートによると、全回答者41人のうち、「ある」と回答した人が17人、「ない」と回答した人が19人、「回答なし」が5人だった。

この結果を見てどう思うか?

 

「ある、と回答した人が17人もいるのか」と思うのか、それとも「ない、と回答した人が19人もいるのか」と思うのか・・・・・

 

私は、後者だ。

この世の中を「生きづらい」と感じたことがない人が19人もいる、ということに驚かされた。

「へぇー、この世の中で生きづらさを感じたことがない人が19人もいるのか」

それも、感じたことが「ある」という人よりも「ない」という人の方が多い

 

私の感覚では、この世のほとんどの人が「生きづらい」と感じ、そう感じている人のほうが普通だと思っていたのだが・・・・・

 

「みんなどんな神経をしているんだろう」「よほど楽燗的なのか、鈍感なのか」(笑)

 

そんなふうに言うと、「ない」と回答した人たちに怒られますよね。「すみません!」

 

逆に「ない」という人たちから見れば、

「なにがそんなに生きづらいと感じるのか」「なにを思い悩んでいるのか」となるのだろうか。

 

とかく、この世は「いじめ ・・・ハラスメント 人間関係等々」思い悩む原因となるものにあふれかえっている。

 

こういう世の中は、繊細でデリケートな人間にとって、また、純粋であればあるほど、生きづらい。

 

そういう問題に出くわしたときに、自分のなかで処理することができず、深く思い悩み、つまづいてしまい、どんどんとその深みに陥ってしまう。

 

幸いなことに、私は今までの人生の中で「ひきこもる」ということはなかったけれども、それに近い状況になったことはあるし、今でも「生きづらい」と思うことはよくある。

 

以前は、自分のそういう部分は弱いところだと思い、自分を変えようと、あがき、もがいてもきたが、この年になってわかってきたのは、どうやら「それは弱さではないのでは」ということだ。

 

他の人よりも、敏感なのだ。

繊細でデリケートな心の持ち主なのだ。

 

日常の生活でなにかあった時、ぜんぜん気にならない人がいれば、ちょっぴり気にする人もいるし、ひどく気にする人もいる。

それは「弱さではなく性格によるもの」

そういうことではないか、と思うようになった。

 

以前、「鈍感力」という本が話題になったことがあるが、この世の中、場合によっては、鈍感ということがプラスになるということだ。

 

但し、もともと繊細でデリケートな人間に「鈍感になれ」といわれても、そうは簡単にはいかない。

それができれば苦労していないのだ。

 

もって生まれた性格というのは、そう簡単には変わらない。

この変わる。変わらないというのは、人それぞれかもしれないので、一概には言えないが、

「私の場合は」ということです。

 

現代は、子供たちや若者たちだけでなく、私たちの世代や、幅広い世代において、ひきこもりがあるという。

それだけ「生きずらい」世の中なのだろう。

 

対人恐怖、社会に出る不安・・・・・人それぞれ、抱えている悩みがあると思います。

 

休みたいときは、ゆっくり休めばいいのです。

 

そして、もし、一歩を踏み出そうという気になったときは、「このくらいならできるかも」「ここになら居れるかも」と自分が思えるような「居場所が見つけられたらいい」と思います。

 

なにも、自分が苦手な場所に身を置く必要はないし、そんな場所に無理していようとするから、余計に落ち込むのではないでしょうか。

 

世の中には、生きていく道は、それこそ限りなくあると言えます。

 

人に会うのがいやなら、現在はネット社会なので、その道を模索するという手もあります。

 

要は、自分にできそうな道を探せばいいのです。

 

その新聞記事の最後にこんなことが書いてあった。

現在、パートで働いている女性は「親から休むのはよくない」と教えられてきたので、思い悩んでる苦しい時、「そもそも休むという選択肢がなかった」。

20代の息子二人も同じように育ててきたが、彼らが今、普通に働くことができているのは「たまたま」ではないかと感じている。

 

そのとおりだと、私も思います。

 

私たちが育った昭和の時代は、まだ、シンプルで、アナログ的な良さがあり、いい時代だったかもしれない。

けれども、現代のこの複雑な世の中では、冒頭に記した「ある」「ない」は、紙一重だと思う。

いつなんどき、そういう状況に自分が追い込まれてもおかしくはないと思う。

 

私が、この年まで「ひきこもり」にならずに生きてこられたのも「たまたま」だろう。