真田丸が放映されたのは、2年前でしたね。
「次はどうなるんだろう!」と胸をワクワクさせながら、毎週日曜8時からの放送を楽しみにしていたものです。
その放映に合わせるように、ブラタモリで、真田丸が放送されたことがありました。
その時、タモリが真田丸の坂道の下に立っているシーンを見た私は、その坂道に「なんとも言えない雰囲気」を感じ、「一度訪ねてみたいな」と思うようになりました。
そうしたところ、その年の12月に永ちゃんのコンサートを観に大阪城ホールに行く機会ができたので、真田丸を訪ねてみることにしました。
真田丸を訪ねる
岡山駅から新幹線で新大阪駅へ、そこから大阪駅に出て、環状線に乗り玉造駅へ行く。
玉造駅からは歩いて、幸村ロードを通り、「幸村公の銅像」と「真田の抜け穴」で有名な三光神社へ行く。
三光神社にお参りして、目的地である「真田丸」に向けて歩き出す。
そうすると、交差点は真田山交差点、小学校は真田山小学校と、至るところに真田の名前が付けられていることに気づかされる。
「さぞかし、地元の人たちに愛されていたんだろうなあ!」
真田山小学校の前を通り、その先の角を右に曲がり、少し歩くと「真田丸顕彰碑」がある。
その斜向かいには、真田幸村と大助の父子を弔うために立てられた「心眼寺」がある。
顕彰碑から先が下り坂になっていて、まさにこの辺りが幸村が築いた出城「真田丸」だ。
現在は、学校のグラウンドの石垣が築かれている。
この坂が、ブラタモリで観た「なんともいえない雰囲気」のある坂だ。
タモリが立っていた場所に私も立ち、坂を眺めてみる。
確かに、雰囲気を感じる。
「ここに出城を築いて徳川軍を迎え撃ったんだなあ」
「どんな思いだったんだろう」
幸村、会心の策に「してやったり!」だったのかな。
そんなことに思いを馳せる。
真田丸の雰囲気を感じた後は、宰相山西公園を抜けて、もう一度三光神社の境内を歩いてから、玉造駅へ向かった。
これで、玉造駅から時計回りに、真田丸をほぼ一周したことになります。歩いて散策するにはほどよい距離でした。
真田幸村 ゆかりの地 九度山
真田丸を訪ねた半年後、仕事で大阪の阪南市へ行く機会ができた。
阪南市から和歌山駅は近いので、そこから、橋本に出て九度山を訪ねることにした。
和歌山駅からJR和歌山線に乗る。
ローカル線の各駅停車ならではの、スローな旅、山里の風景が気持ちを和ませてくれ、1時間ほどで橋本に着いた。
橋本で南海電鉄、高野線に乗り換え、三つ目の駅が九度山駅だ。
ここでちょうど乗車したのが「真田赤備え列車」だった。
赤い車体に六文銭、シートも六文銭だ。
九度山の駅に着くと、これまた真田一色。
駅舎にホーム、自動販売機に至るまで、真田赤備え・六文銭のデザイン装飾が施されている。
九度山の駅から歩いて、真田昌幸、幸村親子が蟄居生活を送った真田庵へ向かう。
その途中に、幸村が大阪城へ馳せ参じる時に、この抜け穴を通って戦場へ出向いたという伝説が残っている「真田古墳」真田の抜け穴がある。
ここから坂道を下り、真田庵に向かう。(真田庵まで約170m)
真田昌幸・幸村が閑居した屋敷跡に建つ寺院。ここで、昌幸は無念のうちに病気で亡くなり、その3年後、幸村は14年間暮らした九度山を後にし、長男・大助と大阪城に向かう。
「ここで暮らしていたんだなあ」
「幸村は、14年間どんな思いで過ごしていたんだろう」
「無念を晴らすため、秘かに再起のチャンスをうかがっていたのだろうか」
「ここでの14年間は、貧乏で生活は苦しかったのかもしれないけれど、戦から離れ、平穏無事な生活が送れていたのかもしれない」
「この地を後にし、大阪城に向かうときは、どんな思いだったのだろうか」
真田庵を眺めながら、思いを馳せる。
真田庵から歩いて2分のところに、「真田ミュージアム」があります。
ここには、真田昌幸・幸村・大助の真田三代の軌跡と、幸村が14年間過ごした九度山での生活を紹介してあります。
九度山駅から、真田ミュージアムまで、徒歩約10分です。
※私が真田丸を訪れたのは、平成28年の12月、九度山を訪れたのは、平成29年の6月です。
もう今は、南海電鉄の「真田の赤備え列車や九度山駅の真田の飾りつけはないのではないか」と思われます。
(南海電鉄のホームページで確認しましたが、はっきりとはわかりませんでした)。
私は、九度山を訪ねた後、橋本に戻り一泊して、次の日、高野山に行きました。